山菜

地の果て男鹿半島では、山菜はポピュラーな食材です。

いろんな種類の山菜がありますが、旬は春から初夏にかけて。

民家のすぐ近くから、ちょっと入り込んだ山の中まで、いろいろなところで収穫することができます。
いろんな人たちが、山に入って季節の恵みを堪能する季節です。

ばっけ(ふきのとう)、さしどり、こごみ、うど、ぎょうじゃニンニク、みず、わらび、ぜんまい、ふき、ひでこ、たらのめ、ひろっこ、たけのこ、等々。

名前をあげていくとキリがないぐらい種類も豊富。
そこらのスーパーの葉物野菜売り場よりもバリエーション豊かだったりします。

素朴な味わい

手の込んだ料理をする人も割といますが、多くの方々はシンプルに素朴な味わいを楽しんでいます。

皮をむき、あく抜きをして、あとは茹でたり、天ぷらにしたり…と、それほど手間をかけずに、山の恵みを、山の風味が残っているうちに手早くいただく。

品種改良が進む一般の野菜と違って、山菜はまったくもって昔と変わっていないので、昔の味わいのままです。

種類によっては、苦みが強かったり、これといった味気のないモノもありますが、逆に、その素朴さが、人の素朴で繊細な味覚を呼び覚ますようにも感じます。

今の野菜と比べると、遥かにつきあいの長い山菜ですから、その味がDNAにまで刻まれてるのかも。
他の食材だったら、美味しくない…って感じる味でも、口に入れた瞬間、その味わい方を舌が思い出す感覚。

あぁ、そうそう、これこれ…という感覚。

山菜の収穫時期は、そっくりそのまま季節のめぐりでもありますし。

山菜文化

山菜を手に入れる方法は、大きく2つ。

自分で山に採りに行くか、人からいただくか。

様々な場所で採れる山菜ではありますが、種類によって、採れる場所も、採れる時期も、採れる量も違います。

中には、おいしい山菜とよく似た毒草もありますので、やはり、その山をよく知ってる人と一緒に行って教えてもらわないとまずいです。

山菜は無料ではありますが、無尽蔵ではないです。

その山で、どの程度の山菜が採れるかを知らないまま、好きなだけ採るっていうのはNG。
自分の分を確保しつつ、他の人の分を残すっていう感覚がすごく大事。

ある程度小さいのは、次の人が来た時に大きく食べごろになるだろうし、そうゆうのはちゃんと残す。
種類によっては、雨が降るとすぐに次のが育ってくるので、少々多めにとっても大丈夫。
タイミングによっては、自分の分を確保できない場合もあるけど、そーゆー時はさっぱり諦める…などなど。

そのへんの感覚は、やっぱり誰かと一緒じゃないと身につかない。
何度も山に行って、山の様子を把握できてないと分からない。

お金を出せばいくらでも買えるスーパーと違って、自分の分をわきまえるっていうのも山菜ならではの文化です。

地域を巡る山菜

それでも、つい夢中になって、思ってた以上の量を採ってきてしまうコトもしばしば。
そうした山菜は、親戚、友人、ご近所への「巡りもの」になります。

旬の時期になると、あちこちから同じ山菜をいただくことも珍しくはなく。
この時期の果ての食卓はすごく豊か。

食べきれなければ、さらに誰かに配ることもあります。
そのまま出すこともあれば、調理したものを配る場合も。

そこには、そのうち何かお返ししましょうか…という緩い感覚が芽生えるのは自然。
別に、もらったものと同額同量のモノを返す…というコトではなくて、そのうち何かをという程度。
そうしたやり取りが、地域のネットワークの基礎になってる部分もあります。

男鹿半島は、周りを海に囲まれ、残る一方も大きな湖が占めていたために、よそとの交易を盛んにする要素に乏しかった歴史があります。
そういう意味では、山菜に限らず、交易や流通に過剰に頼れなかった暮らしの名残りが今の生活の中にも残っていると感じます。

山菜をとりまく文化が、今もしっかり残っているコトを、季節がめぐるたびに実感できる果の男鹿半島です。